9月12日(日)国立劇場おきなわにて「今帰仁落城」という新作組踊を鑑賞しました。この作品は、尚巴志が三山統一し琉球王国が成立する間際の、北山、今帰仁城を舞台に、様々な人間模様が交錯する作品です。
この中で、私が一番感動したことは、実はあまり舞台に関係ないのですが。
男性が演じる乙樽(うとぅだる)を始めとする神女(ノロ)役の美しい所作です。
特に、乙樽役の新垣悟さんの所作、表情は、会ったことはないけれどきっと古の琉球の高貴な生まれの女性はこんなそこはかとない美しさ、優しい中にも凛とした気品がただよっていたのだろうな、と思わせる、女性から見てはっとする美しさでした。
現代女性にはない、神と人の世のはざまに生きるはかなくも、芯のある古の琉球女性の美を見た気がしました。
また、神女(ノロ)役の男性陣の、着物さばき、座る際のごく自然な手の動き、立ち上がる時のラインの美しさなど日常、自分がいかに緩慢な動きをしているのかと、恥ずかしくなるくらいの優雅な身のこなしでした。
今まで、組踊をこのように見た事はなかったのですが、舞台の内容はもとより、普段見ることのできない着物の美しさなど見どころの多い舞台でした。乙樽の五色の襟合わせ、裾の胴衣・下袴(どぅじん・かかん)などは、琉球王国時代の高貴な女性の衣裳の参考にもなりました。
写真は、一枚目は、私の大好きな舞踊家である金城真次くんの古典女踊から。
この後ろ姿に、見習いたくなる硬質な色香がある気がします。
二枚目は、今帰仁城そばの、クバ御獄頂上から、今帰仁城を撮影した写真。
新作組踊「今帰仁落城」は、この今帰仁城を舞台に展開していきます。
「パロール・ジュレと紙屑の都」という話は、キノフという架空の街を舞台に、言葉が凍りついて結晶になるという「パロール・ジュレ」の現象をめぐって交錯する、紙魚(しみ)となって書物を渡り歩く諜報員・フィッシュ、彼を追う刑事・ロイド、「パロール・ジュレ」を解く4人の〈解凍士〉、秘密を握ると思わしき女・レンなど様々な思いが交錯するファンタジーです。
普段はあまりこういった内容の本は読まないのですが、本の持つ雰囲気が好きで、なんだか読み始めてしまった、引き寄せられた本の一つです。
この話の中の「勘と幸運」については、すごくステキな言葉で、思わず納得してしまいました。
勘を働かせられるか、働かせられないか、気付けるか、気付けないか、その勘が正しい道に導いているか否か、ということの答えのような気がします。気付けても、もしかしたら羊の皮をかぶった狼かもしれない、そうすると勘が外れたということ。本物の羊にふわっとめぐり合えた時は勘が冴えているとき。人には、良い時も悪い時もあるし、どちらかだけが続くわけではない。
気付こうとする気持ちが、最初は狼ばっかりかもしれないけど、そのうちコツをつかんで、羊にあえる確率が高くなって、それが、幸運と呼ぶものかもしれない。
この本のこともまったく知らなくて、たまたま図書館で目が合って、手に取ったものです。
私は、本を探すときワクワクします。本の持つ空気感で読むか読まないか決めることも(内容や作者を知らない場合は特に)多いです。
この本は、本物の羊だったなと思います。
この記事から読んだ方は、(上)を読むと、「勘と幸運」について、本から引用してありますので、分かりやすくなると思います。
写真は、前回に引き続き夜に咲く、気付けは美しいのに、気付きにくい蓮の花を。
気付くということに連想して使いました。
本をイメージすると、北欧の少し灰色がかった街並みの色と、中近東あたりのスパイスのにおい、普通の人がひしめき合って暮らす雑踏の音を感じます。
この言葉は、最近読んでいる本
吉田篤弘「パロール・ジュレと紙屑の都」の中の好きな言葉。
「…勘はアンテナではない。少なくとも頭の上に立てて求めるものじゃない。
それは幸運と同じように突然向こうからやって来る。が、幸運はただ一頭の羊がやって来ることだが、勘は羊が何頭もやって来て、そのうちの一頭だけが本物で、あとは羊の皮をかぶった狼でしかない。本物を捕えなければこちらが喰われる。
そればかりか、羊にまったく気付かないこともある。というより、あらかたは気付かない。
羊は、日々何頭も現れているはずなのに、そのほとんどが目にとめられることもない。
人々の傍らを音もなく過ぎ去ってゆく。
となれば、実行あるのみ。
アンテナを立てる必要もないなら、何ら準備することもない。…」
(下)につづく…
写真は、あるようで気付かないという意味から、夜に咲く蓮の花をイメージで。