最近読んだ、小川洋子「沈黙博物館」と柚月裕子「最後の証人」。
「沈黙博物館」は実は何度も途中で止まりながら、約2週間くらいかけて読んだ本。最初の始まりは、やわらかいきれいな雰囲気で始まるのですが、どう表現していいかわからない気持ち悪さと、きれいの裏に見え隠れする不気味な気色悪さを感じる本でした。日本を舞台にしているのかよく分かりませんが、現代なのか現実なのかもはっきりしません。他人の死後、その人を一番端的に表す「形見」を盗んできて、それを展示する博物館をつくるというストーリー。博物館をつくることに並々ならぬ熱意をもつ気味の悪い老婆と、その養女、家に雇われている庭師と家政婦、そして博物館をつくるために雇われた博物館技師を中心に、「形見」の窃盗と、それに交差して起こる「爆弾事件」と、「連続猟奇殺人事件」。犯人はあっさり分かるのですが、なぜそうなったのか、それがどう話に必要なのか、どうも納得できない、よく分からない物語でした。
「最後の証人」は、なんとなく手にとって読み始めたら、法廷ミステリーでさらさらっと読める作品でした。7年前に一人息子を事故で亡くした夫婦を軸に、その犯人への復讐のために犯す殺人事件。途中まで誰が被害者で誰が被告人なのか分からない書き方で、続きが気になり、思わず最後まで読んでしまうという書き口でした。ラストは、納得かな、という感じでした。弁護士の周りのみんなが水面を見ているときに、深海をじっと見つめるような深さがあるという設定は、共感が持てました。ドラマ化とか出来そうな小説でした。
寒い冬に、読書などいかがでしょうか。
2010年のベストセラー小説で、本屋大賞を受賞した本作。そのようなことを知らずに読み始めたのですが、読み始めたきっかけは私自身が、陰陽道や暦法などが好きだったから。それから、最初の1行が面白かったから。
最後まで読みとおして、何かを始めようとしている人や、始めてみたけれど少し壁にぶつかっている人に最適な、後味のいい前向きな小説だと感じました。
日本初の暦を作ることに情熱を燃やした江戸時代の渋川春海を主人公とした歴史小説。でもそれ以上に、何かを成し遂げようとすることの障害や壁、挫折や様々な困難を乗り越えていく春海の生きる姿勢や、人とのコミュニケーションの取り方など、生きる指南書としても面白いものでした。20代の若くて何もかもを早急に成し遂げようとする主人公が、40代の円熟の時期に差し掛かって、柔軟に味方を増やしていき、暦法を成し遂げていく様は、主人公の成長と人間関係の上手なあり方などを教えてくれました。渋川春海自身のキャラクターも、「こんな風になれたらいいなあ」とあこがれる部分もあります。
もう一度読みたいそんな小説です。
写真は、年末に一年の願解きと新年への抱負を伝えたくて沖縄県内を周ったときのもの。この日の翌日からは天気が崩れてしまいました。冬の写真だけあって、光が弱くて、自然の優しい美しさを感じました。色んな事があるけれど、自然の中から得られる力ってやっぱりあるな。その場では分からなくても、少しずつ力がわき上がってくるのを感じます。明日は、久しぶりに天気が良くなるとか。車を走らせて、冬の海や山に行ってみようかな。
スプートニクの恋人は、主人公の「ぼく」、ぼくが恋をしている「すみれ」、すみれが恋をしている「ミュウ」の3人が主な登場人物です。互いが一方通行の中で、出口のない想いが、ギリシャでの「すみれ」の失踪という形になって物語は終盤を迎えます。ここは、「ミュウ」が14年前に自分の身に起こったドッペルゲンガーの事件を回想するシーンです。
ミュウは穏やかな声で続けた。「強くなることじたいは悪いことじゃないわね。もちろん。でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平をよく口にする人たちを、基本的には怠けものだと考えた。当時のわたしの人生観は、確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。そしてそれについて注意してくれるような人は、まわりには一人もいなかった。17歳の時に処女をなくして、それからあとは決して少なくはない数の人と寝た。ボーイフレンドもたくさんいたし、そういう雰囲気になれば、よく知らない人と寝たことのあった。でも誰かを愛したことは―誰かを心から愛したことは一度もなかった。正直に言って、そんな余裕がなかったのよ。とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道することなんて考えもしなかった。自分になにが欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった」彼女はもういちど目の前で両手を広げ、しばらく考えていた。「そういう意味では、14年前にスイスでわたしの身に起こった出来事は、ある意味ではわたし自身がつくり出したことなのかもしれないわね。ときどきそう思うの」
人は自分を超えた想像力を働かせるのは難しいのかもしれません。調子が良くて、順風満帆なとき、人はどうしても高慢になりがちです。このミュウの独白は、幸運であるが故の無意識の傲慢さ、そしてそれゆえに周りでは傷ついている人がいるということを感じさせました。ミュウもすみれも小説の中の架空の人物なのに、そばにいる人のような存在感で私の中に明確に語りかけてくれます。これは、好きな小説に出会った時の醍醐味です。ミュウも14年前に起こった出来事を14年後の今に「ぼく」に対して話すからこそ、理解できることがあると思います。当事者では分からないこと、経験したからこそ分かること。そしてそれが「ぼく」のいう、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということなのかもしれません。
物語も終盤、「すみれ」の失踪事件がなんら進展しない中、「すみれ」の書いた文章を読んだ「ぼく」がそこから何か糸口がつかめないかを考えている場面での言葉。
「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」とぼくは小さな声に出して言ってみた。それはぼくがいつも教室で子供たちに向かって言い聞かせていることだ。でもほんとうにそうだろうか?言葉で言うのはやさしい。でも実際にはどんな小さなことだって、自分の頭で考えるのはおそろしくむずかしい。いや、むしろ小さいことほど自分の頭で考えるのはむずかしいのかもしれない。とくにホームグランドを遠く離れているときには。すみれの夢。ミュウの分裂。
この物語は結局明快な結末を迎えません。日本に戻ってきた「ぼく」への真夜中の電話ボックスからの「すみれ」からの電話。それは、本当に現実なのか、それとも夢なのか、希望なのか、もう一度場所を知らせる電話はかかってくるのかは小説の中には何も描かれていません。それが、若いときにはイライラして、どうなるか分からないことが嫌だったのですが、でも、あれから10年たって読み返すと、このラストこそ、「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなこと」ではないかと思えてきます。村上春樹の頭の中で考えられた明確なラストではなく、自分の頭で考えた想像力のラスト。この醍醐味が、村上作品の持つ独特の媚薬のような気がします。私は、「すみれ」は帰ってこないような気がします。あちら側とこちら側は、「1Q84」でも「海辺のカフカ」にも共通する世界観で、きっと普通に生きている人には感じられないけど、あるときすっぽり落ちてしまうまだ分からない世界があるのだろうな。世界は分かっていることよりも、分からないことのほうが何百倍も多いのだから。