スプートニクの恋人は、主人公の「ぼく」、ぼくが恋をしている「すみれ」、すみれが恋をしている「ミュウ」の3人が主な登場人物です。互いが一方通行の中で、出口のない想いが、ギリシャでの「すみれ」の失踪という形になって物語は終盤を迎えます。ここは、「ミュウ」が14年前に自分の身に起こったドッペルゲンガーの事件を回想するシーンです。
ミュウは穏やかな声で続けた。「強くなることじたいは悪いことじゃないわね。もちろん。でも今にして思えば、わたしは自分が強いことに慣れすぎていて、弱い人々について理解しようとしなかった。幸運であることに慣れすぎていて、たまたま幸運じゃない人たちについて理解しようとしなかった。健康であることに慣れすぎていて、たまたま健康ではない人たちの痛みについて理解しようとしなかった。わたしは、いろんなことがうまくいかなくて困ったり、立ちすくんでいたりする人たちを見ると、それは本人の努力が足りないだけだと考えた。不平をよく口にする人たちを、基本的には怠けものだと考えた。当時のわたしの人生観は、確固として実際的なものではあったけれど、温かい心の広がりを欠いていた。そしてそれについて注意してくれるような人は、まわりには一人もいなかった。17歳の時に処女をなくして、それからあとは決して少なくはない数の人と寝た。ボーイフレンドもたくさんいたし、そういう雰囲気になれば、よく知らない人と寝たことのあった。でも誰かを愛したことは―誰かを心から愛したことは一度もなかった。正直に言って、そんな余裕がなかったのよ。とにかく一流のピアニストになりたいという思いで頭がいっぱいで、まわり道や寄り道することなんて考えもしなかった。自分になにが欠けているのか、その空白に気がついたときにはもはや手遅れだった」彼女はもういちど目の前で両手を広げ、しばらく考えていた。「そういう意味では、14年前にスイスでわたしの身に起こった出来事は、ある意味ではわたし自身がつくり出したことなのかもしれないわね。ときどきそう思うの」
人は自分を超えた想像力を働かせるのは難しいのかもしれません。調子が良くて、順風満帆なとき、人はどうしても高慢になりがちです。このミュウの独白は、幸運であるが故の無意識の傲慢さ、そしてそれゆえに周りでは傷ついている人がいるということを感じさせました。ミュウもすみれも小説の中の架空の人物なのに、そばにいる人のような存在感で私の中に明確に語りかけてくれます。これは、好きな小説に出会った時の醍醐味です。ミュウも14年前に起こった出来事を14年後の今に「ぼく」に対して話すからこそ、理解できることがあると思います。当事者では分からないこと、経験したからこそ分かること。そしてそれが「ぼく」のいう、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということなのかもしれません。
物語も終盤、「すみれ」の失踪事件がなんら進展しない中、「すみれ」の書いた文章を読んだ「ぼく」がそこから何か糸口がつかめないかを考えている場面での言葉。
「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなことだ」とぼくは小さな声に出して言ってみた。それはぼくがいつも教室で子供たちに向かって言い聞かせていることだ。でもほんとうにそうだろうか?言葉で言うのはやさしい。でも実際にはどんな小さなことだって、自分の頭で考えるのはおそろしくむずかしい。いや、むしろ小さいことほど自分の頭で考えるのはむずかしいのかもしれない。とくにホームグランドを遠く離れているときには。すみれの夢。ミュウの分裂。
この物語は結局明快な結末を迎えません。日本に戻ってきた「ぼく」への真夜中の電話ボックスからの「すみれ」からの電話。それは、本当に現実なのか、それとも夢なのか、希望なのか、もう一度場所を知らせる電話はかかってくるのかは小説の中には何も描かれていません。それが、若いときにはイライラして、どうなるか分からないことが嫌だったのですが、でも、あれから10年たって読み返すと、このラストこそ、「大事なのは、他人の頭で考えられた大きなことより、自分の頭で考えた小さなこと」ではないかと思えてきます。村上春樹の頭の中で考えられた明確なラストではなく、自分の頭で考えた想像力のラスト。この醍醐味が、村上作品の持つ独特の媚薬のような気がします。私は、「すみれ」は帰ってこないような気がします。あちら側とこちら側は、「1Q84」でも「海辺のカフカ」にも共通する世界観で、きっと普通に生きている人には感じられないけど、あるときすっぽり落ちてしまうまだ分からない世界があるのだろうな。世界は分かっていることよりも、分からないことのほうが何百倍も多いのだから。