スプートニクの恋人の中には、思わず心惹かれる含蓄のある言葉が、あくまで小説の中の一部としてさりげなくちりばめられている。なので、嫌味っぽく重たくもならないし、小説の中の世界観としてすっと入っていける。次の文章は、年上の既婚女性である「ミュウ」と、小説家志望の若い「すみれ」とが初めて出会う場面での「ミュウ」の言葉。
「どんなことでもそうだけれど、結局いちばん役に立つのは、自分の身体を動かし、自分のお金を払って覚えたことね。本からのできあいの知識じゃなくて」
これは感情についても同じことが言えるような気がします。結局どんなことでも経験してみなければわからない。分かったようなつもりでいても、それはつもりであって、結局分かっていない。そして、経験して初めて、それが苦しくて嫌なことであればある程、感情面において大きな財産になりますし、その時の自分の受けた衝撃から、少しだけ人にやさしくなれるような気がします。
次は、「すみれ」が同性である「ミュウ」に惹かれ、自分が同性愛者ではないか、そうであれば今まで男性との関係に興味が持てなかったことも説明がつくと感ずる部分で、「ぼく」がいう一言。
「意見を言ってもいいかな?」とぼくは言った。「もちろん」「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」「覚えておくわ」とすみれは言った。そしてどちらかというと唐突に電話を切った。
この言葉、よく覚えておきたいものです。村上春樹の小説には、今まで漠然と言葉にならずに心の中にあった物事を唐突に目の前にぱっと見せてくれる表現があったりします。このスプートニクの恋人は、それが多い気がします。あまり急いで結論に飛びつかないほうがいい、この言葉は面白いほど胸に飛び込んできた言葉です。
この場面は、「すみれ」が「ミュウ」とヨーロッパに出張に行き、その旅先で出会った人との流れで、ギリシャの小さな島にバカンスに行った先で「すみれ」が文章をまとめるところから。
考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみる―それがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。「ああ、これなら知っている。わざわざ手間暇かけて書くことないわね」と考え始めると、もうそれでおしまい。わたしはたぶんどこにも行けない。たとえば具体的に言うと、まわりにいる誰かのことを「ああ、この人のことならよく知っている。いちいち考えるまでもないや。大丈夫」と思って安心していると、わたしは(あるいはあなたは)手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない。わたしたちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。それが(ここだけの話だけれど)わたしのささやかな世界認識の方法である。
この言葉に、ハッとさせられました。もしかすると、このブログを読んでくださっている方は、結婚している方や結婚間近な方が多いかと思いますが、あまりにも一緒にいるのが自然で安心しきっているがためにパートナーの優しさを当たり前のことと思ってしまっていたかも。常に、旦那さんや彼氏、友人、親、兄弟姉妹など、周りにいる大切な人を、きちんと見ること。これって、分かっているようで、結構難しいもの。そこに甘えやなれ合いが出てくると、「親しき仲にも礼儀あり」ではありませんが、ィラッとしたり、させてしまったり。こう思っているはずと、自分が思っていることを相手も思ってくれていると誤解して、取り返しのつかないことになったり。人間関係ほど大切で、難しいものはないということを考えさせられた哲学的な格言でした。