シルク・ドゥ・ソレイユ「ゼッド」は、日本で初めて作られた専用劇場による公演。10年間のロングランが予定され、ディズニーリゾートに併設した形となっています。その公演を初めて見に行ったのは、2009年3月。それから、幾度となく足を運んでいる大好きな公演です。
同じ演目を何回も見に行って面白いの??とよく聞かれます。私も実際、シルク・ドゥ・ソレイユを見るまではそう思っていました。でも、最近気付いたことは、舞台と言うのは同じ演目で、同じ出演者であっても、毎回全然違うものだということ。
ゼッドは特に、今まで日本で行われた「コルテオ」や「アレグリア」「キダム」とは違い、「ゼッド」専用のきちんとした劇場があります。特設テントではなく、「ゼット」を魅せるためだけに何億というお金を投じて作られた会場で見るシルク・ドゥ・ソレイユは今まで以上の迫力と、臨場感があります。
銅と真鍮でできた複雑なアストラーべ(天体観測機)。想像上の宇宙に埋もれ、さまざまな声と影とが棲むその世界で、孤独な主人公Zed(ゼッド)は、成長と発見の旅に出る。天と地の狭間で宙吊りになっているこの謎に満ちた世界をさまよううちに、ゼッドは偉大なる女神ニュイやシャーマン、スフィンクス、サキュロスなど、奇想天外で躍動感に満ちた様々なキャラクターに遭遇する。人間の経験の真髄を謳い上げるこの叙情的な冒険物語の中で、以前は調和のなかった二つの世界が、ゼッドを通じて、再び一つになる。
その世界観、表現、技術がすごいことはもちろん。でも私がこのゼッドの世界で、一番心打たれた大好きなシーンは、ストーリーテナー的役割のピエロ二人による掛け合いのシーン。今回のゼッドでは、言葉というのを持ちいません。ピエロ二人の発する音も、どこかの国の言葉のように聞こえますが、実はどこの言葉でもない「音」なんだとか。その中で、一人のピエロが世にも面白い本を手に入れます。文字通り手に入れます。なぜなら、それは両手を合わせて、それを開くことで本に見立て、それを開くと一人のピエロが爆笑します。すると、もう一人のピエロはその本がほしくて本を持っているピエロに自分にもちょうだいと、ねだるのでしが、どんなに両手をあわせて、それを開いても笑っているピエロのようにそこから何かを見つけることが最初は出来ません。でも、徐々に、もう一人のピエロにも分かってきて、最後には二人の手を合わせて本を作りそれを広げて、大爆笑しながら舞台そでに消えるというシーンです。
このシーンを見たとき、私は、「幸せは常に自分のそばに、手の中にあるんだ。でも人は、そばにあればある程、そのことに気付かずに、遠くの人の所ばかりを見て、手の中の本当の幸せに気付けていない。それに気付けたとき、人生は本当に素晴らしいものになる。」
ということを感じました。
人生観まで感じることのできた「ゼッド」は、多くの人に見てほしい、大好きな舞台です。
シルク・ドゥ・ソレイユ、それは私の人生を変えたといっても過言ではない大好きな舞台です。今までに、「コルテオ」を2回、「ゼッド」を数えきれないくらい見ました。舞台はその日その日で雰囲気がだいぶ違います。観客の反応も違いますし、ステージも同じ演目でも空気感が違います。
「コルテオ」は昨日出演したラジオ番組でも紹介しました。昨日のラジオ番組で、「好きなCDを2枚紹介するので、CDを2枚持ってきてください」と言われました。そのときに紹介したうちの1枚が、この「コルテオ」の16番目のフィナーレの曲。ちなみにもう一枚は大好きなミュージカル映画「ナイン」の中より「シネマ・イタリアーノ」を紹介しました。
「コルテオ」とは、イタリア語で「行列」を意味します。一人のクラウンを中心に繰り広げられる祝祭のパレード。それは楽しく陽気でありながらも、どこか儚く哀愁漂う世界。激しく情熱的でありながらも、どこかに切なさや静寂を感じるメランコリックな雰囲気。夏の終わりで、日が暮れるのは日増しに早くなり、夕暮れの寂しさのような、どこかに隙間を感じる想い。それは、サーカスのクラウンの「死」と「再生」がテーマだからかもしれません。
シルク・ドゥ・ソレイユは、究極の芸術です。サーカスという固定概念を根本から覆す、圧倒的なオリジナリティーと芸術性、クオリティーの高さは他の追随を許しません。私が初めて見たのは、「ゼッド」でしたが、その公演を見たとき私は涙が止まらず、号泣しながら、ひたすら拍手したのを覚えています。舞台を見てあんなにしゃっくりをするほど泣いたのは始めてです。それはとても嬉しい体験でした。
バレエが大好きな私は、シルク・ドゥ・ソレイユの、身体の美しさ、元オリンピック選手など世界中のアスリートがアーティストになっている人材の確かさが大好きです。身体というのがここまで雄弁に語るというのを実感できます。生で演奏される世界中の民族音楽をもとにしていると思われるミュージックは、ミュージカル並みの耳での楽しさと、目での楽しさ、そして肌に突き刺さる音の振動で、心が揺さぶられてばかりです。衣裳、メイクの奇抜さも楽しみの一つ。舞台中に見る場所があまりにも多すぎて、何度見ても新しい発見があります。
そして、想像力と芸術性の高い舞台を作り上げる出演者、ミュージシャン、音響照明などの裏方スタッフ、演出家、その他様々な多くの人間のひと手間もふた手間も、なん手間もかかられた世界観を徹底的に作り込むプロとしての姿勢、生きざまに、勇気づけられます。根底に流れるこの姿勢に一歩でも近づきたい、それが私の原動力にもなっています。
英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団「美女と野獣」は今から約3年前の2008年1月8日(火)東京文化会館で行われたもの。
バーミンガム・ロイヤルバレエ団は「美女と野獣」と「コッぺリア」を上演しました。「コッぺリア」には有名な吉田都がタイトルロールで主演するということでどちらを見るか悩んだのですが、「美女と野獣」は日本での初演であり、あいまいな記憶の中では、バーミンガムのオリジナルの演目だったような気がして…。そのため今回は「美女と野獣」を見に行くことにしました。
美女と野獣は、ディズニー映画などでもおなじみのように、野獣の王子が純真無垢な美しい主人公ベルの外見に惑わされない一途な愛情で、人間の王子に戻るというもの。今回の公演で他の演目と何より違っていたのが、まず主人公の野獣がほとんど終盤までずっとかぶり物をしているということ。そのほかの、森の住人たちも、眠れる森の美女の第3幕の、赤ずきんと狼や、長靴をはいた猫のように、とにかくかぶり物の割合がかなり多い。
英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団芸術監督のデヴィット・ビントリーの振付に文句があるわけではないのですが、なんだかバレエを見ているというよりは、小さいころに見たマスクプレーミュージカルを見ているようなそんな気分にだんだんなってきました。あえてかぶり物でなくても、メイクなどで野獣であったり、動物であることは表現できるのではないか。それを演技や踊りで表現してこそバレエではないのか、とどこかにひっかかりがあって、舞台装置も豪華絢爛だし、衣裳も面白いし、オーケストラだし感動できる要素は何かしらあるはずなのに、どこか舞台に入り込めないでいました。また、音楽がこの舞台のために創作された新作で、音楽の盛り上がりと舞台(踊り)の盛り上がりがいまいちあっていない気がしたのと、主人公のベルに存在感がなくソツなく踊るが緩急がなく眠くなってしまう…という理由もありました。
なぜ舞台に入り込めないでいるのかずっと気になっていました。それは、まるで舞台中ずっとそこに薄い紗幕がかかっているようで、舞台を見ている感覚というよりは、巨大スクリーンを見ている感覚といったほうが近い感じでした。生のエネルギーを感じない。
その私の感情を昨日徹夜して読んだ、村上春樹「国境の南、太陽の西」に偶然にも見つけたました。
「…いくらじっと目を閉じて、意識を集中しようとしても、僕はどうしてもその音楽の世界に没入することが出来なかった。その演奏と僕のあいだには薄いカーテンのような仕切りが一枚介在していた。それはあるのかないのかわからないくらいのとても薄いカーテンだったが、どれだけ努力しても僕にはその向こう側に行くことができなかった。…」
私が「美女と野獣」に感じた気持ちはまさにこの感覚でした。小説の中では、リストのピアノ協奏曲を聴きに行くシーンです。
舞台は生きています。同じ舞台を見ても、他の人は感動したかもしれませんし、大好きな演目に挙げているかもしれません。今日と明日の舞台は出演者を含めすべてが同じでも、違います。相性が合わなかったのだと思います。どんなことにも、どのように感じるかは人それぞれ。自分で体験してみなければわからないもの。ある意味で今までとは違った感覚を知ることができた、3年たっても忘れない思い出深い公演の一つです。