英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団「美女と野獣」は今から約3年前の2008年1月8日(火)東京文化会館で行われたもの。
バーミンガム・ロイヤルバレエ団は「美女と野獣」と「コッぺリア」を上演しました。「コッぺリア」には有名な吉田都がタイトルロールで主演するということでどちらを見るか悩んだのですが、「美女と野獣」は日本での初演であり、あいまいな記憶の中では、バーミンガムのオリジナルの演目だったような気がして…。そのため今回は「美女と野獣」を見に行くことにしました。
美女と野獣は、ディズニー映画などでもおなじみのように、野獣の王子が純真無垢な美しい主人公ベルの外見に惑わされない一途な愛情で、人間の王子に戻るというもの。今回の公演で他の演目と何より違っていたのが、まず主人公の野獣がほとんど終盤までずっとかぶり物をしているということ。そのほかの、森の住人たちも、眠れる森の美女の第3幕の、赤ずきんと狼や、長靴をはいた猫のように、とにかくかぶり物の割合がかなり多い。
英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ団芸術監督のデヴィット・ビントリーの振付に文句があるわけではないのですが、なんだかバレエを見ているというよりは、小さいころに見たマスクプレーミュージカルを見ているようなそんな気分にだんだんなってきました。あえてかぶり物でなくても、メイクなどで野獣であったり、動物であることは表現できるのではないか。それを演技や踊りで表現してこそバレエではないのか、とどこかにひっかかりがあって、舞台装置も豪華絢爛だし、衣裳も面白いし、オーケストラだし感動できる要素は何かしらあるはずなのに、どこか舞台に入り込めないでいました。また、音楽がこの舞台のために創作された新作で、音楽の盛り上がりと舞台(踊り)の盛り上がりがいまいちあっていない気がしたのと、主人公のベルに存在感がなくソツなく踊るが緩急がなく眠くなってしまう…という理由もありました。
なぜ舞台に入り込めないでいるのかずっと気になっていました。それは、まるで舞台中ずっとそこに薄い紗幕がかかっているようで、舞台を見ている感覚というよりは、巨大スクリーンを見ている感覚といったほうが近い感じでした。生のエネルギーを感じない。
その私の感情を昨日徹夜して読んだ、村上春樹「国境の南、太陽の西」に偶然にも見つけたました。
「…いくらじっと目を閉じて、意識を集中しようとしても、僕はどうしてもその音楽の世界に没入することが出来なかった。その演奏と僕のあいだには薄いカーテンのような仕切りが一枚介在していた。それはあるのかないのかわからないくらいのとても薄いカーテンだったが、どれだけ努力しても僕にはその向こう側に行くことができなかった。…」
私が「美女と野獣」に感じた気持ちはまさにこの感覚でした。小説の中では、リストのピアノ協奏曲を聴きに行くシーンです。
舞台は生きています。同じ舞台を見ても、他の人は感動したかもしれませんし、大好きな演目に挙げているかもしれません。今日と明日の舞台は出演者を含めすべてが同じでも、違います。相性が合わなかったのだと思います。どんなことにも、どのように感じるかは人それぞれ。自分で体験してみなければわからないもの。ある意味で今までとは違った感覚を知ることができた、3年たっても忘れない思い出深い公演の一つです。