沖縄ウェディング プロデュース 「Love Baile(ラブバイレ)」

美言葉 8 スプートニクの恋人(中)

2010.12.09

村上作品に欠かすことのできない月の存在

 スプートニクの恋人の中には、思わず心惹かれる含蓄のある言葉が、あくまで小説の中の一部としてさりげなくちりばめられている。なので、嫌味っぽく重たくもならないし、小説の中の世界観としてすっと入っていける。次の文章は、年上の既婚女性である「ミュウ」と、小説家志望の若い「すみれ」とが初めて出会う場面での「ミュウ」の言葉。

 「どんなことでもそうだけれど、結局いちばん役に立つのは、自分の身体を動かし、自分のお金を払って覚えたことね。本からのできあいの知識じゃなくて」

 これは感情についても同じことが言えるような気がします。結局どんなことでも経験してみなければわからない。分かったようなつもりでいても、それはつもりであって、結局分かっていない。そして、経験して初めて、それが苦しくて嫌なことであればある程、感情面において大きな財産になりますし、その時の自分の受けた衝撃から、少しだけ人にやさしくなれるような気がします。

 次は、「すみれ」が同性である「ミュウ」に惹かれ、自分が同性愛者ではないか、そうであれば今まで男性との関係に興味が持てなかったことも説明がつくと感ずる部分で、「ぼく」がいう一言。

 「意見を言ってもいいかな?」とぼくは言った。「もちろん」「あまりにもすんなりとすべてを説明する理由なり論理なりには必ず落とし穴がある。それがぼくの経験則だ。誰かが言ったように、一冊の本で説明されることなら、説明されないほうがましだ。つまり僕が言いたいのは、あまり急いで結論に飛びつかないほうがいいということだよ」「覚えておくわ」とすみれは言った。そしてどちらかというと唐突に電話を切った。

 この言葉、よく覚えておきたいものです。村上春樹の小説には、今まで漠然と言葉にならずに心の中にあった物事を唐突に目の前にぱっと見せてくれる表現があったりします。このスプートニクの恋人は、それが多い気がします。あまり急いで結論に飛びつかないほうがいい、この言葉は面白いほど胸に飛び込んできた言葉です。

 この場面は、「すみれ」が「ミュウ」とヨーロッパに出張に行き、その旅先で出会った人との流れで、ギリシャの小さな島にバカンスに行った先で「すみれ」が文章をまとめるところから。

 考えてみれば、自分が知っている(と思っている)ことも、それをひとまず「知らないこと」として、文章のかたちにしてみる―それがものを書くわたしにとっての最初のルールだった。「ああ、これなら知っている。わざわざ手間暇かけて書くことないわね」と考え始めると、もうそれでおしまい。わたしはたぶんどこにも行けない。たとえば具体的に言うと、まわりにいる誰かのことを「ああ、この人のことならよく知っている。いちいち考えるまでもないや。大丈夫」と思って安心していると、わたしは(あるいはあなたは)手ひどい裏切りにあうことになるかもしれない。わたしたちがもうたっぷり知っていると思っている物事の裏には、わたしたちが知らないことが同じくらいたくさん潜んでいるのだ。理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。それが(ここだけの話だけれど)わたしのささやかな世界認識の方法である。

 この言葉に、ハッとさせられました。もしかすると、このブログを読んでくださっている方は、結婚している方や結婚間近な方が多いかと思いますが、あまりにも一緒にいるのが自然で安心しきっているがためにパートナーの優しさを当たり前のことと思ってしまっていたかも。常に、旦那さんや彼氏、友人、親、兄弟姉妹など、周りにいる大切な人を、きちんと見ること。これって、分かっているようで、結構難しいもの。そこに甘えやなれ合いが出てくると、「親しき仲にも礼儀あり」ではありませんが、ィラッとしたり、させてしまったり。こう思っているはずと、自分が思っていることを相手も思ってくれていると誤解して、取り返しのつかないことになったり。人間関係ほど大切で、難しいものはないということを考えさせられた哲学的な格言でした。

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美言葉 8 スプートニクの恋人(上)

2010.12.08

村上春樹「スプートニクの恋人」

 村上春樹「スプートニクの恋人」は、1999年に発表された長編小説。私も10年くらい前に読んだことがあったのですが、覚えていたのはタイトルと、登場人物の女性が、自分のドッペルゲンガーを観覧車の中から見て一瞬のうちに白髪になるということだけ。その内容も、どういう場面でなのかは全く覚えていなくて、その一場面だけがかなり印象に残ったのを覚えています。

 そんな中読んだ「スプートニクの恋人」は、月が印象に残りました。村上春樹の小説での月といえば「1Q84」。2つの月が象徴的に物語の世界を作り出します。なぜか、この「スプートニクの恋人」の中でも、私は月の光、無慈悲で寒々しい月のもつ一面が、まるで自分自身に降り注いでいるようなリアルな感覚がありました。村上春樹の文章は、こんなこと私が言わなくても多くの人が感じているとは思いますが…。まるで自分か経験したようなリアリティーを感じます。そして、主人公はみんな静的な情熱を内に秘めており、どこか達観しているあきらめと、でも決してあきらめない熱情という相反するものをごく自然に醸し出します。私は、こんな風に一度自分の中で咀嚼してから、感情を表に出すというよりは、その時の感情を瞬間的に出してしまう傾向があるので、主人公たちの静けさにどこか憧れを感じます。

 スプートニクの恋人は、村上作品の中でも、好きな話の一つです。忽然と姿を消してしまう「すみれ」。最後に「ぼく」にかかってきた電話は、現実なのか、「ぼく」の妄想なのか、本当に「すみれ」は戻ってくるのかは何も約束されていません。10年前に読んだときは、「すみれ」と「ミュウ」の同性愛の作品としか受け取らなかったけれど、今回読んでみて、同性愛は話の根幹ではなくて、どうしても交わることのできない、互いを大切にすればするほど、どうしてもすれ違ってしまう行き場のない想いというのはこの世にはどうしても存在してしまう、ということを漠然と感じました。本当に「すみれ」はどこに行ってしまったのだろう。もしかして、「ミュウ」が殺してしまったのではないか。そのアリバイに「ぼく」をギリシャまで呼んだのではないか。「すみれ」がこの世からいなくなることで二人は、あちら側で結ばれたのではないか。なんて、思ったりもしました。どうにも読み取れる。行間の多く深い作品のような気がします。

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組踊(くみうどぅい)

2010.12.06

組踊が上演された首里城

 組踊。今年世界遺産に指定され、一躍注目を集めている組踊ですが、言葉は分かっていても、一体どういうものなのか、なかなか難しいもの。沖縄の伝統芸能は、一度は見てみたいなと思っても、何を何から見ていいのかよく分からないとの声もよく耳にします。そこで、今回は沖縄の伝統芸能「組踊」についてまとめてみたいと思います。

 組踊は、簡単に言うと西洋の「オペラ」に近いかもしれません。組踊はストーリーにあわせて、演者のセリフ、演技と踊り、音楽、歌とを絶妙に組み合わせ、組み合わせた踊りと書いて「組踊」と表現します。

 でも、西洋のオペラのような絢爛豪華な派手さはなく、どちらかというと「能」の幽玄の世界と通ずるものがあります。登場人物もそこまで多くはなく、オペラのように何十名の合唱が高々と謳い上げる、なんてシーンはありません。セリフも正直、一般の人には何を言っているのか分かりません。最近の公演では字幕が出ることが多いので、その字幕を見ながら状況を理解できます。セリフも普通の話言葉とは違い、「唱え」と言われ、独特の旋律を唱えます。まるで唱をうたっているかのような、不思議な旋律は、組踊の楽しみの一つです。この「唱え」は、若衆とよばれる元服前の少年の唱え、青年の唱え、女性の唱えなど、その役柄によって唱え方が違います。その幽玄の世界は、もちろん眠くもなりますが、でも耳に気持ちいい響きです。

 また、組踊は「聴きに行く」とも言われます。それは、立ち方と同様に重要なのが「音楽」だからです。前奏なしに謳いだしたり、立ち方のセリフが言い終わらないうちにセリフにかぶせるように演奏が始まったり。同じ曲を何回も使用して、場面に合わせて歌詞を変えてその微妙な心情の変化を表現したり。歌を地謡と呼ばれる演奏者が唄っている間は、舞台にいる立ち方と呼ばれる役者は、全く動かず、観客はその歌を楽しむというような風流な演出もあります。一般の方がびっくりするのが、演奏者である三線奏者は、歌も歌います。唄いながら三線を弾くので、唱・三線と呼ばれます。

幽玄の世界の組踊

 組踊は、現代の早くて分かりやすい内容が好まれる風潮には、相反するようですが、舞台展開や大道具などは何もなく、必要最小限の動きですべてを表現する世界観は、大人だからこそ楽しめるものだと思います。この機会にぜひ一度見てみてください。

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