今帰仁城内の金比屋武(かなひゃぶ)を斬りつけた宝剣千代金丸についてのこぼれ話。
今帰仁城の霊石であり、現在も城内に残され、信仰の対象となっている金比屋武に斬りつけた、宝剣千代金丸(ほうけん・ちよがねまる)のその後について。
1416年、北山滅亡の際、尚巴志に攻められた北山王ハンアンチが城を守れなかったことに怒り、日々信心していた霊石の金比屋武を斬りつけて後、そのまま志慶真川(しけまがわ)に投げ捨てられた千代金丸。
これは、後に尚家に献上され、代々伝えられたとされています。尚家伝来の三振りの宝剣の一つで2006年に「琉球国王尚家関連資料」として、国宝に指定され、現在は那覇市歴史博物館に所蔵されています。
写真は、宝剣千代金丸に斬りつけられたと言われる霊石・金比屋武です。
9月11日・12日に行われた新作組踊「今帰仁落城」において、クライマックスに出てくるのが、隣の写真の今帰仁の金比屋武(なきじんのかなひゃぶ)です。
世界遺産の一つである今帰仁城内にある御獄。ここは、琉球七獄の一つでもあります。
北山最後の王が、今帰仁城が攻め落とされるときに、城を護らなかった守り神である霊石に憤り、宝剣千代金丸で斬りつけたという伝説が残っています。
この霊石は「受剣石」とも呼ばれています。実際に残っている霊石には、ひびが入っていますが、伝説の中では、憤った北山最後の王・ハンアンチが石を真っ二つに切り裂いたとなっています。
今回の新作組踊の中でも、石にひびを入れるのではなく、真っ二つに切り裂く場面があります。
また、「今帰仁落城」の中で、重要な転換場面になる歌が今帰仁城の中に残されています。
「今帰仁の城 しもなりの九年母志慶真乙樽が ぬきやいはきやい」
(今帰仁城主の愛妾志慶真乙樽が老年になってできた子を可愛がる様子を時期外れのみかんに例えた琉歌)
「今帰仁落城」の中でも重要な役柄であった乙樽は、北山王の側室で、絶世の美女として知られる伝説の女性であり、忠誠と慈悲にあふれるその姿は、のちに神と言われるようになり、今帰仁御神と呼ばれるようになったとのこと。女性の名が歌碑に残るのは珍しいことで、いかに乙樽が今帰仁において重要な位置を占めていたかが分かります。
写真は、一枚目は、琉球七獄の一つであり、受剣石とも呼ばれる「金比屋武」
二枚目は、今帰仁城内に残る、乙樽の歌碑です。
子宝の霊場である、シルミチュー霊場のほかにも沖縄には、開闢伝説が各地に伝わっています。
浜比嘉島では、アマミチュー、シルミチューという男女の神様が島に降り立って、男女の神様が夫婦となり、そこから人々が増えたという、アダムとイブや、古事記のイザナミ、イザナギのような伝説が残されています。
シルミチュー霊場に上るための長い階段が産道であり、たどりつく鍾乳洞が子宮、そこにある鍾乳石が男性器、洞穴内にある壺に年に一度、石を入れるのは卵子と精子の受精を意味しているとも言われています。
口承伝承であるため、学術的ではなく、また多くの説があります。
ここでいうアマミチュー、シルミチューについても、何通りかの学説があり、2人の神様の名前という説だけではありません。現在の学説では、アマミチュー(本島ではアマミキヨと呼ばれる)は、「奄美から来た人」という意味で、個人名ではなく、日本人とかアメリカ人というような集団の固有名詞であり、一人ではなく、集団で海を渡ってきたというのが定説なっています。
アマミチュー(アマミキヨ)に対してのシルミチュー(本島ではシネリキヨと呼ばれる)は、学説によると、アマミキヨに対する反語であり、個人名ではないとの説もあります。
ですので、アマミチュー、シルミチューに男性神とか女性神のような性別もないというのが現在の学説の定説になっています。
学術的なところと、精神世界の基層信仰的な受け取り方、どちらにしても、琉球の始まりとして現代社会でも、沖縄の礎として、大切に崇拝されていることが分かります。
学説は少しロマンチックじゃないな…というのもあるかもしれませんね。