沖縄ウェディング プロデュース 「Love Baile(ラブバイレ)」

沖縄を感じる一日(上)母たちの神 比嘉康雄展

2011.01.08

展覧会ちらしより

 沖縄県立博物館・美術館にて2010年11月2日~2011年1月10日(月)まで開催されている写真展覧会「母たちの神 比嘉康雄展」を見に行ってきました。今日の沖縄は暖かい晴れの天気で、気持ちのいい青空。そんな中、会期が明後日までと迫った気になる写真展をやっと見ることができました。

 比嘉康雄(ひが・やすお)は、1968年のB52爆撃機の墜落事故をきっかけに、警察官の職を辞して、写真家となりました。激動期の沖縄を象徴し、戦後沖縄を代表する写真家の一人と言えるでしょう。初期には、沖縄の社会的な現状に目を向けましたが、宮古島の祭祀との出会いに衝撃を受け、琉球弧の祭祀世界ー沖縄の古層に、沖縄人の生活・文化の根となる思想を求めていきました。本展では、比嘉が生前に出版のため編纂した「母たちの神」-琉球弧の祭祀を網羅した写真群ーを中心に紹介しながら、比嘉康雄が求めた思想を芸術、民俗、哲学などの各方面から、多面的に検証いたします。(チラシより)

 写真展は6章立てに構成されていました。1章「神迎え(かみんけー)」、2章「神崇め(かみあがみ)」、3章「神女(かみんちゅ)」、4章「神願い(かみにがい)」、5章「神遊び(かみあしび)」、6章「神送り(かみうくい)」となっていました。100点を優に超える写真は、沖縄の基層信仰に触れる存在感でした。

 1章「神迎え」:琉球弧の島々では、死後の魂(マブイ)はニライカナイ(多くは太陽の昇る東の海のかなたにあると信じられている他界)へ還ると信じられ、祖先の魂は現生の人間を守護する神(祖霊神)と考えられています。神にはこのような祖霊神と、森や井泉などに宿る自然神がおり、祭祀はそれら神々を迎えることから始められます。祭祀の始めに、神女たちは、長い祭祀で1週間ほど御獄(ウタキ)や杜に忌み籠り、その後神迎えの儀式が行われます。神迎えによってニライカナイから迎えられた神々は、御獄や拝所の神木などに宿り、やがてその魂が神女たちを中心に、神々が大きなユー(世=幸、豊穣)をもたらすことを願い、祈りを捧げます。

 2章「神崇め」:神迎えによって来訪した神々は、神酒や供物の歓待を受けます。神人(カミンチュ)たちは、数日にわたり御獄に籠もることもあります。そこでは、神謡(ティルルなど)や御祟(おかたべ)によって神々を讃え、シマの創生からの物語などが謡われます。祭祀によっては、行列や円陣を組み、踊り、時に手拍子や太鼓を打ち鳴らし、神々が、来訪した歓びを表現します。それに伴って神々のセジ(霊力)はいよいよ高まり、セジの依りいた神女の中には神がかり(トランス)状態となって、神口(ご神託)を唱える者も出現します。時にはその状態が高じ、神女が卒倒するケースもあります。

 3章「神女」:琉球弧の祭祀はムラ(シマ)を単位に行われます。その多くは女性(神女)を中心に行われ、男子禁制の御獄や拝所も多く存在します。シマによっては、女性が一定年齢に達すると、儀式を経て神女になるという伝統もありました。久高島の有名なイザイホーがその代表的な儀式です。女性が祭祀の中心となる理由の一つに、琉球弧に見られる「オナリ神信仰」があります。姉妹(オナリ)の霊力が兄弟(エケリ)を守護するろいうこの信仰は、琉球王国時代には国家祭祀の中にと取り入れられ、王の姉妹である聞得王君(きこえおうきみ)を頂点に、島々にノロ(地域によってはツカサ)を配する「ノロ制度」と呼ばれる神女制度が布かれました。1879年の琉球処分によって祭祀制度の多くは廃止されましたが、その一方でシマジでは、ノロ(ツカサ)や神女たちによって続けられている祭祀も今日まで存在します。

 4章「神願い」:琉球弧では旧暦を中心に、一年を通じ様々な祭祀が行われます。島人たちは家庭や地域でそれらに参加し、神酒や線香、塩や花米、作物など様々な供物を神に捧げ、健康祈願、豊穣祈願、子孫繁栄、ムラやクニの繁栄など、それぞれの祈りの言葉や神謡で神に祈願します。主要な祭祀に、正月、麦祭祀(3月)、稲祭祀や海神祭(5月)、ウマチー(稲の収穫儀礼、6月)、お盆や豊年祭(7月)、十五夜(8月)、種取祭(9月)、結願祭(10、11月)、年の夜(大みそか)などがあります。さらに神願いには、3年周り、7年周り、12年周りなど、数年ごとに行われる特殊な例もあります。沖縄本島北部のウンジャミやシヌグ(2年に1度)、久高島のイザイホー(12年に一度)などが、その有名な例です。

 5章「神遊び」:神と神女が一体となって神への願いを届けたのち、祭祀は終盤へと向かいます。神女たちは「あけづ(とんぼ)遊び、はべる(蝶)遊び」などを神々と共に舞い踊ります。そしてそれまで厳粛に祭祀を執り行ってきた神女たちが緊張状態から解放され、打ち晴れの神遊びを行います。イザイホーの最終日、神女たちが静かに舞う様を、比嘉康雄は次のように記しています。「久高御殿庭でのグゥキマーイは、イザイホーの最終演目ということもあってか、終始感動的であった。(中略)神女たちはこのティルルと渾然一体となり、さびしさと哀しさが入りまじった表情をしている。とくにナンチュは今にも泣きだしそうだ。」「ナンチュたちが、長い不安と緊張から解放され名実ともに一人前の久高の女になった喜びを顔一ぱいにして舞う。」神遊びは祭祀の頂点、クライマックスであり、神々を無事迎え、願いを成し遂げた神女や島人たちの解放感が、豊かに表現されます。

 6章「神送り」:祭祀の最後に、神女たちを先頭にして神送りが行われます。祭祀の間中、シマ人たちから様々な歓待を受けた神々は、やがてニライカナイへ送られて行きます。神送りは、神迎えをした場所や、村外れなどで静かに行われます。シマ人たちは、神々と別れる事を悲しみながらも、また次の祭祀には神々が来訪する事を祈ります。神々との名残を惜しむ神謡なども奉納され、神々もシマ人との別れを惜しむ所作を繰り返しながら、御獄や神山、ニライカナイへと還っていきます。(母たちの神ー比嘉康雄展 解説文より)

久高島のイザイホー

 神を迎える用意として行われる「物忌み」の習慣。これは、平安時代を中心に貴族の中で行われた習俗の一つです。家内におこった災いを封じるため、門を閉め、居に籠もる(閉門籠居)をその中心とし、物忌みの行われる理由には様々なものがありました。現代にも通じる口舌物忌み(くぜちものいみ)もその一つで、人の蔭口や悪口などの風評被害を避けるために、物忌みをしたり、とにかくわが身に災いが降り注ぐことを極端に恐れて、物忌みという習慣は貴族の生活の中心になるほど大きな影響力を及ぼすものでした。しかし、物忌みと言う習俗は、もともとは神と対峙するときに、自分の身に穢れがないように払い、禊をし、神聖なる身で神に向き合うという祭祀習俗でした。その平安の初期に日本で廃れた、物忌みの根源なる習俗が、沖縄の近現代まで実際に残っていたということが今回の写真展で分かり、衝撃を受けました。中央に近付くほどに失われて行く古い習慣、文化。それは、沖縄においても離島や北部にしか、大きな祭祀世界が残っておらず、首里に近い地域の写真がほとんどなかったことからも伺えます。沖縄の中央と辺境。そして日本の中心から離れた所に位置した島嶼環境が遺した文化遺産。でも、現在の世界の環境は、ネットやバーチャルの普及により、中央も僻地も何もない。いっしょくたでスピーディーで一見便利な時代に、失ってはいけない精神のあり方を垣間見た気がします。

 時間がある方は、明日、明後日までやってますので、ぜひ見に行ってくださいね。言葉では表現できない空気を感じます。写真展の行われた美術館の空間も、どこか寒くて、気を感じるちょっと異様な感じがしました。写真から伝わる神の気なのかもしれません。

お電話はこちら:090-1941-8853

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